「探検部らしさ」とは?


                                    Ty  2005年2月27日

近年、男らしさ女らしさ、さらには学生らしさなど様々な「らしさ」は嫌われる傾向にある。その中にあってあえて「探検部らしさ」というものについて考えてみようと思う。

いったい何が探検部らしいといえることなのか?いざ具体的に挙げようとするとなかなか言葉にしにくい。探検部のメンバーみんながなんとなくイメージは持っているのだが、形にはならないものである。しかし探検部らしさとはみんなが持っているものなのならば、それは活動の内容に現れてくるのではないか。たとえば、真冬の川でのラフティングは探検部の活動として実際行われた。しかし、USJに行って遊んだりなんばで買い物したりする事をわざわざ計画書を作って募集するものはいない。これは真冬の川に行く事は探検部らしいことであり、USJやなんばに行く事は探検部らしいことではないと皆が無意識のうちに判断しているからだと思う。このように考えると、探検部らしさとは無意識の中の存在であり、さらに形にしにくいものとなってしまう。だがそれでもあえて、今までの活動経験から言葉としてまとめるとすれば、探検部らしさとは「ちょっと無茶でやってみたいがなかなかやれないこと、を敢行すること」という感じになると思う。ただしこれはあくまで僕の考えである。六甲縦走や、真冬の日置川などがその象徴だと思う。

しかしその「〜らしさ」とは、時代とともに変わるのが常である。探検部らしさというのものも、時代とともに移ろい変わっていくものであろう。もしその中でいつまでも自分の考える、従来の探検部らしさにかたくなにこだわりつづけるなら、探検部は組織としての新陳代謝を失い、老化が始まり腐敗していくだろう。また、従来に形にしがみつく事が探検部らしいこととも思えない。しかし逆に流行のままにながされれば、何が探検部なのか、自分なのかわからなくなる。形がないのが形だという意見もあるかもしれないが、それは詭弁である。形がないものはやはり形がない。それは自分とは何かという事に対する思考を放棄した結果もたらされる結論であると思う。「らしさ」を保ちながらも時代とともに変わる事はとても大変な事だと思う。しかしその中で悪戦苦闘することは、自分の中での探検部という存在を見つめなおす機会にもなる。僕は是非悪戦苦闘してみたいと思っている。

「〜らしさ」というものが嫌われるのは多くの場合それが「束縛・制限」になっているからである。わかりやすい例が冒頭に挙げた男らしさ、女らしさなどである。しかし前述したように「らしさ」というものが全くないというのも僕はよくないと思う。「らしさ」というものを束縛などでなく自分の土台としてとらえ、そこから常にまわりを見渡すという気構えでいることが、「らしさ」をもちながら変化の速い現代で生きていく方法だと思う。

PS
なんだか言葉足らずでちゃんと伝わったかわからないし、最後は探検部とあまり関係なくなったかもしれません。また改訂版を出すかも・・・? とりあえず、今回はここまで